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渡辺かんぞう 石碑 .jpg

【渡邉鑵造翁頌徳碑】

 渡邉鑵造[天保48年(1873)生、明治40年(1907)没]​は、当時広石村で古くからの実業味噌醤油醸造業を営み、剣道の達人として知られ、数々の公職につき、また多くの社会事業に尽くしました。

明治6年(1873)御津神社の祠掌に任命されて以後、生涯​神職を勤め、御津神社の他赤日子神社(蒲郡市)や八幡宮(豊川市八幡町)の宮司を歴任しました。産土神社である御津神社には他の何よりも力を注ぎ、県社昇格や造営等々に尽くしました。

殊に、明治15年(1882)竣工の現拝殿再建では建設委員を引き受け、資金の殆ど全額を自ら寄付しました。

拝殿再建百年を記念して、昭和58年(1983)10月に氏子中がこの頌徳碑を建立しました。

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​【平野・竹本義人 碑】
寛文年中御津町金野地内に十一カ村の入会山がありました。この入会山について地元二カ村と九カ村との間に入会権の争いが起こりました。広石村の庄屋平野源蔵、組頭竹本庄右衛門は9カ村代表として寛文9年(1669)幕府代官へ直訴しました。
​ それが重罪となって打ち首の刑に処せられました。昭和58年広石公民館完成記念として境内に建てられました。

【御津神社道標】
三河屈指の国学者で羽田八幡宮神主の羽田野敬雄は三河官社の道標建立を同志と発企しました。当社のは安政5(1858)東大塚に、安政7年(1860)広石松口に建てられました。今は2基とも二の鳥居前の船形築山の上に移されています。敬雄は「おのがふる里西方の産土神にませば」といわれて、他にも御津神社の顕彰と繁栄のために尽くされ、多くの献詠、献額や書の奉納をされました。

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​【国学四大人の歌碑】
羽田野敬雄が主唱して、明治11年(1878)国学者荷田春満(かだのあずままろ)、加茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)の歌碑を建てました。
​ 宝飯郡の神職の支援のもとに社司などを長く勤めた地元広石の渡辺鑵造が中心になって、460名の資金援助を得て実行されました。明治という大きな時代の転換期にあって氏子地域の高揚した情熱が感じられます。この頃御津神社に宝飯郡​神道事務支局が置かれて郡内各神社の拠点となり、社殿の造営も進められて、県社昇格を果たしました。

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